父とカメラ

投稿日:2015年8月31日

カテゴリー:ブログ , 日常

父の夢は『映画監督になること』だったそうです。
音楽と映像を勉強し楽しんでいたのが子どもだった私にもよくわかりました。
現在はピアノは仕事、映像は趣味、といった感じのようです。

カメラや映像に関する知識や経験は私が思うにはプロ並みだと感じています。
私や家族のイベントや学校の行事には必ずカメラを、それもなんだか凄いカメラ。
赤ちゃんの時から今までも多分これからもいっぱい撮ってくれそうです。
父のカメラに関して子どもの時に見ていて凄いなぁと思っていたのは、フィルムの巻き取りから現像も全て自宅で自分でしていたこと。
自宅には現像用の暗室があり、そこで現像しているところをのぞかせてもらうと、現像用のいろんな道具や薬品があってそこで真剣に作業している父が今も印象に残っています。

フィルムの巻き取りを手伝わせてくれる時もありました。
私が小学生くらいの時です。
上手く出来ないのはわかっての事だったのか、もしくは上手くするだろうと期待してくれていたのか、でも黒い風船のようなものに両手を入れてその中でフィルムの巻き取りを終わらせないといけないのに途中でその風船から出してしまいフィルムに残された写真はパァに。
笑って許してくれましたが、ほんとは悲しかったんじゃなかったのかなぁ。
すごく申し訳なかったなぁと思います。

現像の暗室は薬品の酸っぱい匂いが印象的で、その液体に柔らかいトングのようなものでフィルムをつまんで何度かくぐらせるような作業をしていました。
現在は現像は自分ではしていないようですが、出来上がった写真を引き伸ばしたり綺麗にラミネートしたり簡易なものから高価そうなものなどの額縁に入れて部屋や仕事場に飾ったり私にもくれたりします。
私もいろんな撮影に付いて行かせてもらったことがあります。
山や町並みやお寺や、そしてこれって良い写真になるの?って思うような路地裏のような所など。
一番よく覚えているのは車で二人で1時間くらいの所の枚方市内の何でもないような住宅地。
車を降りて、私は三脚をかついで父はレンズやら何やら私にはよくわからない道具を持って歩いて近付いて行ったのはあるお宅の外壁でした。
経年の色褪せや凹凸があるレンガの壁した。
それを20㎝くらいの至近距離から撮っていました。
出来上がりの写真は絵画のようで父の目の付け所に感心しました。

私がまだ小学生だった頃、父の作品が飾られている写真展に行ったことがあります。
『雨』というタイトルの写真でした。
じっと見ている私の横で写真にうるさそうな詳しそうな気難しそうな紳士が父のその作品を何度もうなづきながら見ていたのが印象的でしたがその時は「この人わかってんのかな、私はわからへんわ」と作品『雨』の良さがその時はわかりませんでした。
が何かの賞を受賞したと聞いて嬉しく思ったことを覚えています。

紅葉や古都などの撮影も一緒について行きました。
目で見る風景と写真になってからの違いが楽しみだったから。

私の夢は父の個展を開きそこでは私の作った曲がBGMで流れている。
まだ妄想でしかありませんが….

父のレッスン

投稿日:2015年8月31日

カテゴリー:ブログ , 日常

ピアノの奏法、作曲の勉強(和声学など)以外の勉強は父がレッスンしてくれました。
聴音、コーリューブンゲン、新曲視唱、新曲視奏など。
週に一回 曜日を決めて約90分ほどのレッスンでした。
そのレッスンのテキスト、五線のノート、父が記していたレッスン日誌は大量で今でも大切に保管しています。

中学生から始めた父のこのレッスンは楽しくもあり、でも学校も楽しくレッスンのために誰よりも早く下校するのが残念な日もありましたが、父が待ってくれてると思うと今から思ってもとても真面目に受けていました。
待ってくれている、時には時間に遅れた私を玄関の外に出て待ってくれている時もありました。
「言い訳はいいから早くレッスンしよ」と、きっと父も仕事やいろんなことで忙しかったはずなのにほんとによくしてくれたなと何年も経ってから感じるようになりました。

おかげで音大受験の副科試験は自分で言うのも気が引けますがとても良い成績でしたし、入学してからも、和音聴音など割と苦手とされていた授業も私は楽しく受けることが出来ました。
何より、耳コピと言われる作業をする時に父から受けたレッスンで身についたものが財産になっているように思います。
「私のレッスン以外にいろんな曲をコピーするように」とよく言われていました。
人生で初めてコピーしたのはリチャードクレーダーマンの『秋のささやき』という曲でした。
4小説ずつを繰り返し聞きながらノートにとる、全体を聞いて調性を把握したり抑揚を線で記したり。
楽譜を買ってきて見れば済むことなのになんで耳コピするねん、と捗らない自分の譜面に苛立ちながらやっと完成した時は嬉しかったです。
それを「出来た」と言って父に見せる時の褒めて欲しいという自分の気持ちをよく覚えています。
ちらっと褒めてくれましたがすぐに次の曲に取り掛かるように言われました。
今思うとほんとに父は熱心に私を導いてくれたと思います。

父は今 10年以上前から患っているこう頭がんと食道がんの治療をしながら、でも毎日 仕事をし、体力維持のためのスイミングに通い、どこでも自転車で移動する、とても精神の強い人です。
見習うところが多過ぎて大変です。
できるだけ長生きして欲しいです。
一曲でも多く私の作った曲を聞いてもらいたいです。

続きます(^^;;

投稿日:2015年8月31日

カテゴリー:ブログ , 日常

ものごごろついた時からピアノに触れていたのは父と母が音楽をしていた環境でした。
最初の記憶は父の膝の上でピアノの前に座り鍵盤を触っていたこと。

私が子どもの頃の父の家での印象は毎日決まった時間に必ずピアノを弾いていたこと。
何かの曲を弾くこともありましたが、父オリジナルの練習曲でした。
アルペジオを繰り返し弾くこと、3度の和音で音階を繰り返し繰り返し弾くこと、それをレガートでスタッカートでマルカートで、とすごく工夫がされた練習でした。
途絶えることなく1時間くらい弾き続けてそして仕事に向かう。
そんな毎日の積み重ね練習を父は欠かさずしていました。

私が作曲の道に進んだのは父がごく自然に、でもすごく計画を立てて導いてくれました。
ピアノはものごごろついた頃からでしたが、作曲の勉強は中学生になってからでした。
私の恩師の矢田部宏氏は父の恩師でもありました。
父に初めて矢田部氏のもとへ連れられて行った時は正直なところ、ただ 父について行っただけで音楽の勉強という事は判っていても作曲の勉強だとは判っていませんでした。
初めての和声学、対位法、モチーフを用いた色んな形式の曲作り、楽曲分析などどれもそれまでに積み重ねてきたピアノとはまた異なるものでした。
とても厳しくて中学生の私を大人扱いで教授して下さる恩師でした。
ある時、その厳しさにレッスンに通うのが苦痛でレッスンに出かけるのが嫌で嫌で家の玄関からどうしても動けずに泣いている私をはじめは何とかして行かそうとしていた父でしたが頑固に動かない私に「じゃ、今日は休んで、私から先生に連絡しておくから」と言ってその日はとうとうズル休みしました。
ホッとしたのと、その時の父の気持ちを思うと随分心配させ困らせてしまったと自己嫌悪な気持ちになりました。
その次の日、「次の矢田部先生のレッスンにはこの鞄を持って頑張ってみなさい。」と新しい鞄を買ってきてくれました。
私の好きなピンク色で、丸みのある形の高価そうなものでした。
鞄そのものも嬉しかったのですが、私を励ましてくれる父の気持ちがすごく嬉しく感じました。

続きます(^^;;

次の企画

投稿日:2015年8月11日

カテゴリー:ブログ , 日常

愛コンが終わりました。
満席でとても盛況で、成功だと思えます。
が、私自身は一カ所演奏で悔いが残る部分がありました。
レジストの切り替えでどうしても間に合わない所があり、練習の時もうまくいく確率は50%でした。
切り替えが遅れたのが原因で16音符が1音鳴らせずに、そこに悔いが残ります。
小室哲哉のように3台4台と取り囲んで演奏するなら問題ないのでしょうが。

あと、嬉しかったこと。
出演者の方々と「よろしくお願いします」とか「お疲れ様です」とか「ありがとうございました」とかの言葉を交わすのは当たり前であってまたそれは嬉しいことでも当然あるのですが、それ以上に嬉しかったこと。
会場のスタッフの方なのですが、リハ終了後に私の所へ来て下さり「これを使ってはどうですか?」とフットペダルを勧めて下さいました。
サスティーン用のフットペダルは使っていたのですがそれは音量を調節する物でした。
きっとリハの私の演奏で私が微妙な音量を手元で調節していた事を見て下さっていて勧めてくれたのだと思います。
アコースティックピアノならもちろん演奏の技術で音の強弱や抑揚、タッチの工夫で音色や響きを奏でます。
が、シンセサイザーの場合は多少は弾き方で音量も変わるのですが時間をかけてのクレッシェンドやデクレッシェンドは操作で行います。
勧めて下さったフットペダルを本番でいきなり操作となると使いこなす自信がなくお断りしましたが、より良い演奏のために助言をいただいた事、すごく嬉しかったです。
そしてそのスタッフの方、本番の演奏直後にまだ楽器のそばにいた私の所へ来て下さり「うまくいきましたね、良かったです」と労いと感想を言って下さいました。
これも嬉しかったです。
きっと控えでモニター越しに見て下さっていたのだと思います。
出演者間以外の方からの労いは本当に嬉しかったです。

聞きに来てくださった方々、ありがとうございました。
合唱団の方々、ピアノの方、ギターの方、そして指揮者の方、練習からリハ、本番とほんとにお世話になりましてありがとうございました。

さて、次回の演奏の予定ですが、来週に三線奏者の浅田さんという方にお会いして企画を進めてみようかと準備中です。
また具体的なことが決まれば告知させていただきたいと思っています。
三線とピアノの演奏、曲選びもまだこれからですが楽しみです。

(*´╰╯`๓)♬

梅田ALLWAYSでのライブ

投稿日:2015年8月8日

カテゴリー:ブログ , 日常

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理恵ちゃんの先生、山根若菜先生のライブを見にALLWAYSに行って来ました。
着いて席につきひと息ついたところで、
あれっあの人見たことある と思い
あ、若松駿平さん、なんでここに?

若松駿平さんは、初ブログでご紹介したユニット『ジュネス』さんのメンバーで現役音大生でギタリストさんです。
明日(もう今日だけど)愛コンで一緒に演奏する若松さんがこんなとこに
なんで?
と、私に気付いてくれた山根先生と若松さんが同時に近くに来てくださり、山根先生には私と若松さんが7/26の愛コン2回目の合同練習で名刺交換もして初めましてのご挨拶をした事と明日(もう今日だけど)愛コンでご一緒する事を、若松さんには理恵ちゃんが山根先生のレッスン生である事を伝えて3人ともびっくり

私は山根先生のライブは確か4度目で、てことは7/26の合同練習で若松さんに、初めましてではなくてそれまでにもライブのステージで見てた事に、それにギターのセンスも技術もすごい人だなと思ってました。
それと、7/26は理恵ちゃんは音大のオープンカレッジに参加していてその話も若松さんにしたのですがその時に「知り合いたくさんいてますよ」にこっという感じの会話をしました。

山根先生と若松さんは先輩後輩でありバンドメンバーだった事が今日(もう昨日だけど)初めてわかって、ほんとに、繋がりというものにびっくりしました。
ライブには若松さんのお母様(ジュネスさんのメンバーです)もいらっしゃっていて、終演後に「明日の愛コンでお世話になります、よろしくお願い致します」とご挨拶を交わす事が出来て嬉しかったです。

で、ライブ
山根先生の声量いつもすごいです。
サックスの方、ドラムの方、キーボードの方、ベースの方 名前覚えられませんが迫力もあり、抑揚もありいつも演奏に引き込まれます。

写真はあまり良く撮れていませんが雰囲気だけでも思いました(^^;;
山根先生、オーラが強くてお顔が光りすぎてます(^^;;

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